マーケティング近視眼(全文)


1960年にセオドア・レビットが出した名論文、『マーケティング近視眼』の全文です(上リンク先の本にも掲載されています)。

顧客志向の大切さについて教えてくれます。
とても50年以上も前に書かれた文章だとは思えないほどの知性が光ります。
あと、論文だからなのかは知りませんが、同じような表現が目立つのが多少鬱陶しいです。

著作権が切れたので勉強もかねて全文書きました。
原文訳を参考にしていますが、一部英文を参照し、訳を変更している部分もあります(日本語が不自然な部分があるため)。

以下本文


事業衰退の原因は経営の失敗にある

 主要産業と言われるものなら、一度は成長産業だったことがある。
 成長に沸いていても、衰退の兆候が顕著に認められる産業がある。成長の真っ只中にいると思われている産業が、実は成長を止めてしまっていることもある。
 いずれの場合も成長が脅かされたり、鈍ったり、止まってしまったりする原因は、市場の飽和にあるのではない。経営に失敗したからである。
 失敗の原因は経営者にある。つまるところ、責任ある経営者とは、重要な目的と方針に対応できる経営者である。例を示そう。

・鉄道会社のケース
 鉄道が衰退したのは、旅客と貨物輸送の需要が減ったためではない。それらの需要は依然として増え続けている。鉄道が危機に見舞われているのは、鉄道以外の手段(自動車、トラック、航空機、さらには電話)に顧客を奪われたからではない。鉄道会社自体がそうした需要を満たすことを放棄したからなのだ。
 鉄道会社は自社の事業を、輸送事業ではなく、鉄道事業と考えたために、顧客を他へ追いやってしまったのである。事業の定義をなぜ誤ったのか。輸送を目的と考えず、鉄道を目的と考えたからである。顧客ではなく、製品を中心に考えてしまったのだ。

・映画会社のケース
 映画の都ハリウッドは、テレビの攻勢による破滅からかろうじて踏みとどまっている。現実には、すべての一流映画会社は、昔の面影が残らないほどの大変革に見舞われたし、なかには、はやばやと消え去った会社もある。
 映画会社が危機に陥ったのは、テレビの発達によるものではなく、「戦略的近視眼」のためである。鉄道会社と同じように、映画会社も事業の定義を誤ったのだ。映画産業をエンタテインメント産業だと考えるべきだったのに、映画を制作する産業だと考えてしまったのである。
 映画という製品は、他のもので代替などできない特殊な商品だーーこう考えてしまうと、ばかげた自己満足が生まれる。映画製作者は、初めからテレビを脅威として見てしまった。ハリウッドはテレビの出現を自分たちのチャンスーーエンタテインメント産業をさらに飛躍させてくれるチャンスとして歓迎すべきだったのに、これを嘲笑し、拒否してしまった。
 今日、テレビは狭い意味に定義されていた映画産業よりも巨大な産業である。ハリウッドが、製品中心(映画の制作)ではなくて、顧客中心(娯楽の提供)に考えていたら、財政的に苦しむこともなかっただろう。
 結局、ハリウッドを救い、再起をもたらしたのは、若手の脚本家、プロデューサー、監督たちである。彼らは、かつての古い体質の映画会社を打ちのめし、映画界の大物を動揺させながら、テレビ界で名を挙げて来た。

 このほかにも、事業目的の定義が間違ったために将来を危ぶまれた(あるいは危ぶまれている)例がある。そのうちのいくつかについては、後ほど詳しく議論し、その事業を苦境に追い込んだ原因について分析してみたい。
 ここでは、明らかにチャンスを逸した場合でも顧客中心の経営を徹底すれば成長産業であり続けられるということを知らしめたい。
 デュポンとコーニングは、長らく競合関係にあった。共にナイロンとガラスの製造に優れ、技術力が非常に高い。製品中心型の起業であることは間違いない。
 しかし、両社の成功は製品だけによるものではない。大昔のニューイングランドの織物会社ほど、製品中心で製品重視を打ち出していたところはなかったが、いまではその片鱗もなく消え失せてしまっている。
 デュポンとコーニングの成功要因は、製品とR&D(Research and development、研究開発のこと)へのフォーカスだけにあるのではない。同時に顧客へのフォーカスにも徹していた。
 これらの二社は、技術ノウハウを応用し、顧客を満足させるチャンスを常に探し続け、膨大な数の新製品を生み出し、ことごとく成功させてきた。顧客について鋭い目を配っていなかったら、新製品の大部分は的外れなものとなり、その販売方法も空回りしていたに違いない。
 アルミニウム産業も成長を続けている。これは戦時中に設立された二つの企業のおかげである。これら二社によって、顧客を満足させる全く新しいアルミニウムの用途が開発された。カイザー・アルミニウムとレイノルズ・メタルの二社が存在しなかったら、今日のアルミニウム総需要は遥かに少ないものになっていただろう。

経営の想像力と大胆さ 
 鉄道産業とアルミニウム産業を比べる、あるいは映画産業とガラス産業を比べるのは馬鹿げたことだと批判する人がいるかもしれない。彼らはこう考えるだろう。“アルミニウムやガラスはもともと生産素材で汎用性が高いのだから、鉄道や映画よりも成長の機会に恵まれていて当然だ”と。しかし、この考え方こそ、彼らを私が本稿で述べてきた失敗に陥らせてしまう根本原因なのである。
 産業や製品、あるいは技術ノウハウについて狭く定義してしまったがために、それらを十分花咲かせないままに衰退してしまう。「鉄道産業」という場合、その意味は「輸送産業」でなければならない。輸送産業としてなら、鉄道にもまだまだ成長できるチャンスがある。鉄道による輸送だけに限定することはないからだ。(もっとも、鉄道輸送は世間が考えているよりも遥かに強力な輸送手段になり得ると私は考えるが)
 鉄道産業に欠けているものは、成長のチャンスではない。鉄道をここまで大きくした、経営的な想像力と大胆さなのである。
 ジャック・バーザン(哲学者。主著に、『ダーウィン、マルクス、ヴァーグナー―知的遺産の批判 (叢書・ウニベルシタス)』など)のような素人でさえ、鉄道に欠けているものに気付いて、次のように述べている。
「前世紀において最も進んだ物的社会的組織(=鉄道)が、それを支えていた想像力を欠いたために、惨めで不名誉な地位に落ちて行くのを見ると、慚愧に堪えない。いま鉄道に欠けているものは、創意と手腕によって生き残り、大衆を満足させようという会社の意志なのである」


忍び寄る陳腐化の影

 主要産業といわれるもので、ある時期に「成長産業」という名称を与えられなかった産業など一つもない。どれを見ても、その強みは、明らかに製品の優秀さにあった。有力な代替品もありそうになかった。その製品自体が既存の製品を蹴落とす代替品として、圧倒的な力を見せたのである。
 ところが、このような花形産業にも衰退の影が忍び寄ってくる。以下、あまり注目されなかったケースについて少々触れておきたい。

・ドライクリーニング産業
 かつてドライクリーニング産業は、前途洋々の成長産業であった。ウール衣料全盛の時代には、衣料を傷めず簡単に洗うには、結局ドライクリーニングしかないと考えられており、その活況は長らく続いた。
 しかし、ブームが始まって30年が経った今、ドライクリーニング産業は苦境に瀕している。そのライバルはどこから来たのだろうか。より優れたクリーニング法が生まれたのだろうか。そうではない。合成繊維と化学添加剤の登場で、ドライクリーニングの必要がなくなったのである。
 これもまだ序の口にすぎない。化学処理を行うドライクリーニングを徹底的に陳腐化させる強力な魔法使いーー超音波クリーニングが、翼を伏せて、いつでも飛び立とうと身構えているからだ。

・電力事業
 電力にも代替品がなく、向かうところ敵なしに成長を続けると考えられている。
 白熱電球の登場によって、石油ランプの時代は終わった。電動モーターの汎用性、信頼性、操作性、どこでも容易に使用できる利便性によって、水車も蒸気エンジンも粉砕されてしまった。電力事業は目を見張るばかりの繁栄を続け、家庭はいまや電気器具の展示場のようだ。向かうところ敵なしであるのだけでなく、成長が約束されており、電力事業に投資しない人間などいない。
 しかしよく見直してみると、万事順調というわけではない。というのは、電力会社以外で燃料電池の開発を進めている会社があるからだ。この装置は各家庭の人目につかない場所に設置され、音も静かである。
 この燃料電池が普及すると、住環境を醜くしていた電線も姿を消すことになる。街路を不断に掘り返す工事や、台風時の停電もなくなるだろう。近い将来、太陽エネルギーの研究も、電力会社以外の企業によって進められるに違いない。
 こう考えると、電力会社にライバルはいない、と誰が言えるだろう。現在、電力会社が独占企業であることに間違いはないが、将来、死滅の時を迎えてもおかしくない。
 これを避けるには、電力会社も燃料電池、太陽エネルギー、その他の新しいエネルギー源の開発に努めなければならない。生き残りをかけて、現在の糧を自ら陳腐化しなければならないのである。

・食料品店
 昔、「街角の食料品店」という名で呼ばれ、かなり繁盛していた店舗があったことを、ほとんどの人は覚えていない。スーパーマーケットの効率性がこのような食料品店を押し潰してしまったのである。
 1930年代、このスーパーマーケットの攻勢から何とか逃れられて存続できたのは、大規模食料品チェーン店だけであった。
 最初の本格的なスーパーマーケットは、30年、ロングアイランド州ジャマイカに生まれた。33年までにはカリフォルニア、オハイオ、ペンシルバニアその他の各州に広がっていった。ところが、既存の食料品チェーン店は尊大に構えたまま、スーパーマーケットの成長を無視した。
 その後、やっとその存在に気付いた時でさえ、「安売り屋」「荷馬車行商人」「素人商店経営」さらには「商人道徳のない一発屋」といった表現で嘲笑したのである。
 当時、ある大規模チェーン店の経営者は次のように言った。
「人々が何マイルもの遠方から食品を買いに来るなんて信じられない。チェーン店の行き届いたサービスには奥様たちも馴染んでくれていて、それを犠牲にすることは有り得ない」
 36年になっても、全国食品卸商会議やニュージャージー州食品小売商協会は、スーパーマーケット恐るるに足りず、と次のように宣言している。
「スーパーマーケットは価格の安さを求めて来店する顧客に受けているのだから、市場規模は限られている。だから、周囲数マイルもの広い地域を商圏にしなければならない。商圏内に競合店が現れたら、互いに売り上げが落ち、ついには大型倒産が起こるだろう。現在、売り上げが伸びているのは、一つには物珍しさからだろう。
 消費者は、家の近くの便利な店がよいに決まっている。もし近所の食料品店が仕入れ先と協力し合って、コストに注意を払うと同時にサービスもさらに改善すれば、スーパーマーケットとの競争に耐え抜いて、やがて嵐も収まるだろう」
 ところが、嵐は収まらなかった。食料品チェーン店が生き残るためには、自らがスーパーマーケット事業に進出せざるを得ないことに気付いた。これは何を意味したか。食料品チェーンが今までに街角の店の敷地や、独特の配送方法、マーチャンダイジング方式に投資してきた巨額の金がすべて無駄になるということなのだ。
 しかし、信念を貫く勇気を持った幾つかの食料品チェーン店は、頑に街角店の原理に固執した。彼らは誇りを捨てなかったが、無一文になってしまった。

成長産業など存在しない
 記憶とは忘れられやすいものだ。たとえば今日、エレクトロニクス産業と化学工業を救世主と確信して歓迎している人たちが、急成長しつつあるこれらの産業にも、やがて不吉の影が忍び寄るだろうと気付くことなど出来るはずもない。
 ある経営者などはーーたいへん先見性に長けていたがーーかつて近視眼にかかったことをすっかり忘れてしまっている。この経営者とは50年前に、ボストンに在住していた有名な百万長者である。彼は遺言状に「自分の全資産は永久に市電事業の株だけに投資すべし」と書いたがために、相続人たちを図らずも貧困に追いやってしまった。「市電は効率の良い都市交通機関であるから永久に莫大な需要がある」という死後公表された彼の言葉は、ガソリン・スタンドの給油係としてやっと生活を支えている彼の遺産相続人にとって、何の慰めにもならない。
 ところが、私がトップ・マネジメントを対象に、たまたま実施した調査では、その半数が「自分の財産をエレクトロニクス産業に永久に投資させるとしても、相続人が困ることはない」と考えていた。
 そこで私がボストンの百万長者が市電事業に投資させた例を挙げると、口を揃えて「それは別の話だ!」と言った。はたして別の話なのだろうか。基本的には同じではなかろうか。
 実は成長産業といったものは存在しない、と私は確信する。成長のチャンスを創り出し、それに投資できるように組織を整え、適切に経営できる企業だけが成長できるのだ。何の努力もなしに、自動的に上昇していくエスカレーターに乗っていると思っている企業は、必ず下降期に突入する。
 すでに死滅したか、死滅しつつある成長産業の歴史を調べてみると、急激な拡大の後に思いがけない衰退が訪れる。何故この繰り返しが起こるのか。そこには四つの共通する条件がある。

 ①人口は拡大し、さらに人々は豊かになりつづけるから、今後も間違いなく成長すると確信している。
 ②自分たちの産業の主要製品を脅かすような代替品などあるはずがないと確信している。
 ③大量生産こそ絶対だと信じ、生産量の増加に伴って急速に限界コストが低下するという利点を過信している。
 ④周到に管理された化学実験によって製品の品質はどんどん改良され、生産コストを低下させるという先入観がある。

 これら四つの条件の一つ一つについて、詳しく検討してみたい。
 できるだけ要点を明確にするために、三つの産業ーー石油、自動車、エレクトロニクスーーなかでも、長い歴史を持ち、有為転変を繰り返してきた石油産業について、詳しく述べることとする。
 これら三つの産業は、評判も良く、慧眼の投資家たちの信頼も得ている。さらに経営者たちが、財務コントロールや製品研究、管理者研修といった分野で進歩的な考え方を持っているとされる。
 もし、これらの産業でさえも陳腐化してしまうのだとしたら、他の産業は言うまでもない。


人口増加という危うい神話

 人口は増え続け、しかも人々が豊かになるので、利益は保証されているという確信はどの産業でも根強い。
 しかし彼らは、この確信ゆえに、未来への判断を鈍らせてしまう。消費者の数が増え続け、製品やサービスをどんどん買ってくれるとしたら、市場がだんだん先細りになる場合に比べれば、未来を安易に考えるのも無理はない。
 市場が拡大している時には、メーカーは真剣に思考したり、想像力を働かせたりはしない。問題があれば知的に反応することを思考だとするなら、問題がなければ思考は停止してしまう。もし、ひとりでに拡大する市場があるとしたら、どのようにして市場を拡大すべきかなど真剣に考えたりしないだろう。
 これについて興味深い事例がある。石油産業だ。石油産業には、アメリカで一番古い成長産業であったという、輝かしい歴史がある。現在、その成長率を危ぶむ説もあるが、石油産業自体は楽観的な見方を取り続けている。
 とはいえ、石油産業にも他の産業と同じ基本的な変化が訪れているはずである。成長を続けることが難しくなっているばかりでなく、他産業に比べると衰退産業であると言わざるを得ない現実がある。
 まだ人々は気付いていないが、25年以内には石油産業も、現在の鉄道が直面しているような、過去の栄光を懐かしむ立場に追い込まれるのではないだろうか。
 投資評価のNPV(正味現在価値)法の開発と応用、社員との関係や発展途上国との合弁事業などで見せたパイオニア的な業績にも関わらず、自己満足と頑迷さとが如何にチャンスを台無しにしてしまうのかという、悲劇的な事例となってしまっているかもしれない。
 増大する人口が望ましい結果に繋がると信じてきた産業、また同時に強力な代替品は存在しない素材製品を持っている産業の特徴とは何だろう。業界内の各社は既存の製品や販売方法を改良することで、他者よりも一歩先んじようと努力する。もちろん、顧客が製品特性だけで製品を比較するために、売上高が人口数と比例するというのであれば、この努力にも意味があるだろう。
 ジョン・D・ロックフェラーが中国へ石油ランプを無料で送って以来、石油産業は何一つ際立った需要創造の努力をしてこなかった。この事実を無視してはいけない。事実、製品改良にさえ、これといった実績を残していないのである。
 ただ一つ最大の改良、テトラエチル鉛の開発も、実は石油産業以外ーーゼネラル・モーターズとデュポンーーから生まれたものだ。石油産業の大きな貢献といえば、油田探査や採油、精製の技術くらいのものである。
 つまり、石油産業の努力は石油の採掘と精製の効率改良にのみ向けられ、石油製品そのものの品質改良やマーケティングの改良に対しては何もしてこなかったのだ。
 さらに、主要製品をガソリンというごく狭い範囲に限定しており、エネルギー、燃料、輸送用の資源という、幅広い定義をしなかった。このことから、次のようなことが起こった。

・ガソリンの品質についての大きな改良は、石油産業から生まれなかった。優れた代替燃料(後述)の開発も、石油産業によるものではない。
・自動車燃料のマーケティングを変革したのは小さな石油会社によるもので、同社は石油の採掘や精製とは無縁だった。給油ポンプを多数設備したガソリン・スタンドを次々と作り、広くて清潔な店舗レイアウト、スピーディで効率的なサービス、良質なガソリンの廉売に力を傾け、成功を収めた。

 このように、石油産業は難問を抱え込むことになった。いずれも石油産業以外から持ち込まれたものである。遅かれ早かれ、この産業にリスクを恐れない革新者や起業家が現れ、危機がもたらされることは間違いない。
 この危険性をもっとはっきり示そう。次に挙げる、経営者の多くが抱いている危険な確信に目を向けてみればこのことはわかるだろう。これは最初の確信と密接な関連があるので、再び石油産業を例にとることにする。

代替品が現れない製品はない
 石油製品には、その主要製品であるガソリンに匹敵するような代替品はなく、しいて挙げればディーゼル燃料やジェット燃料など原油からの精製品だろう、と一般的に考えられている。ーー従って、原油から作られる自動車用燃料の競争優位は揺るがない、という確信が生まれたのである。
 この考え方は、多分に希望的観測によるものだ。問題は、ほとんどの石油精製会社が膨大な量の原油を貯蔵していることにある。貯蔵原油に価値があるのは、原油を原材料とする製品の市場が存在している時だけだ
 過去の歴史上の事実は、この確信が誤っていると教えている。にも関わらずこの確信は根強い。歴史が証明しているように、石油はどんな目的にも長期間にわたって優れた製品であったことはない。それどころか、石油産業は成長産業であり続けたこともない。成長、成熟、衰退という通常のサイクルを経た事業の連続に過ぎない。
 石油産業が生き延びてこられたのは、奇跡的に幸運が陳腐化の底に落ち込むのを救い続けたからだ。ちょうど使徒パウロが危機に陥った時、土壇場で思いがけなく刑の執行が延期されたようなものである。

石油産業が再三の危機を脱したのは幸運に過ぎない
 主なエピソードだけを挙げよう。

・石油ランプの衰退
 当初、原油は主に売薬として使われていた。薬としての人気がまだ続いているうちに、石油ランプが使われるようになり、需要は拡大した。石油ランプは世界中に普及するという予想から、需要の飛躍的な拡大が見込まれた。
 現在、ガソリンがこれと似た状況にある。世界中至る所でガソリンが必要になるという見通しは、果たして正しいのだろうか。発展途上国の国民が一人一台の車を持つ日は、一体いつ訪れるのだろうか。
 石油ランプが使われていた時代、ランプを改良するために石油会社同士は競い合っていた。あるいはガス灯を相手に競争していた。ちょうどその頃、突如として信じがたいことが起こった。エジソンが、石油を必要としない照明器具、すなわち白熱電球を発明したのである。
 もし当時、暖房用の石油需要が増えなかったとしたら、エジソンの白熱電球が完全に石油産業を成長産業の座から引き摺り下ろしていただろう。暖房を除けば、機械の潤滑油にでも使うしかなかったからである。

・セントラル・ヒーティングの出現
 石油産業は、その後にも再び危機に見舞われたが、なんとか踏みとどまることが出来た。二つのイノベーションが起こったからである。しかし、これらのイノベーションは、どちらも石油産業から生まれたものではなかった。
 石炭を燃料とする家庭用セントラル・ヒーティング・システムの開発によって、これまでの暖房機は陳腐化してしまった。石油産業が慌てふためいているうちに、強力な救いの手が差し伸べられたーー内燃機関の発明である。この発明は、石油産業によるものではない。
 内燃機関によるガソリンの膨大な需要は、20年代になって横ばいになり始めたが、セントラル・オイル・ヒーティングの出現によって、またしても石油産業は奇跡的に救われた。前回と同様、この発明と開発を担ったのは石油産業ではない。この市場が衰えてきた時、航空機用のジェット燃料という戦時需要が救いの神となって現れた。
 戦後は、民間航空の発達、鉄道のディーゼル化、乗用車およびトラックの爆発的な需要に支えられて、石油産業は高い成長を維持し続けた。

・天然ガスの脅威
 最近では、セントラル・オイル・ヒーティングが将来のブームになりそうだと言われ始めている。しかし既に、天然ガスとの激しい競争が始まっている。
 石油と競合するようになった天然ガスを所有しているのは他ならぬ石油会社だが、率先して天然ガスへの移行に取り組んでおらず、天然ガスを所有しているという特権を利用しようともしていない。
 天然ガスへの移行に取り組んでいるのは、新しく生まれたガス販売会社である。積極的に天然ガスを市場に売り込んでいる。ガス販売会社は石油会社の警告を無視し、石油会社の抵抗を物ともせず、輝かしい新産業へのスタートを切ったのである。
 もちろん、筋から言えば、天然ガスへの移行を主導すべきだったのは石油会社である。彼らは、天然ガスを所有しているだけではない。天然ガスの処理、不純物の除去、使用法、そしてパイプラインの技術と配給に関する経験があるのも彼らだけなのである。暖房について最も良く理解しているのも石油会社である。だが天然ガスが暖房用石油と競合するという理由もあって、天然ガスの将来性を無視してしまったのである。
 天然ガスへの移行は、当初、石油パイプライン会社の経営幹部によって始められた。彼らはガス販売を上申したが、受け入れられなかったため、潔く退社し、天然ガス販売会社を発足させて見事に成功したのである。
 この成功が石油会社の頭痛の種となった後でも、彼らは天然ガスの販売に踏み切ろうとはしなかった。自分たちのものであったはずの何十億ドルもの事業は、他人の手に渡ってしまった。
 過去にもそうであったように、石油産業は石油という特定製品、その貯蔵価値だけに目を奪われていた。論ずるまでもなく、顧客の基本ニーズと嗜好については、ほとんど注意を払ってこなかった。
 第二次世界大戦後の数年間は、無風状態だった。その直後には、旧来の製品ラインの需要が急速に拡大したため、未来はバラ色だった。50年には国内需要の年間成長率を約6%と踏み、それは少なくとも75年まで続くと予想した。
 共産圏に対する自由経済圏の原油埋蔵量と需要との割合が、実際は20:1であったのにも関わらず、アメリカではその割合が10:1であると考えられていたこともあって、石油需要ブームが起こり、将来的な見通しもないまま、人々は油田探しに狂奔し始めた。
 52年、中東で大油田が発見された。埋蔵量と需要との割合は、一挙に42:1になった。もし、過去五年間の埋蔵量の平均増加率(年間370億バレル)がこのまま続くとしたら、70年には45:1になる。石油の過剰が明らかになったため、世界中で原油と石油製品の価格は軟化した。

幸運を呼び込むために自ら幸運をつくり出す
 今日、石油化学産業が急速に発展しているからといって、石油会社の経営者は安穏としているわけにはいかない。石油化学工業も大手石油会社が手がけたものではないのだ。
 アメリカ全体の石油化学製品の生産高は、全石油製品の需要量の約2%にすぎない。石油化学工業は年間役10%成長すると見込まれているが、この程度では他の面での原油消費量の落ち込みをカバーできるものではない。
 石油化学製品は種類も多い。それぞれ成長していると言っても、石炭など石油以外の基礎原料があることも忘れてはならない。その上、プラスチックなどは、比較的少量の石油から大量に生産できる。石油プラントの効率性を考えると、最低一日50000バレルを精製しなくてはならないが、石油化学工業では、一日5000バレルの石油消費が最大規模である。
 石油は、過去においても常に成長産業であったわけではない。石油産業以外のイノベーションや開発に奇跡的に救われて、思い出したように成長したにすぎない。
 なぜ石油産業は成長路線をスムーズに歩めなかったか。優れた代替品が登場する恐れはないと業界が考えるたびに、石油は製品としての優位性を失い、陳腐化の道をたどらざるを得なかったからである。
 これまでのところ、ガソリンは自動車用燃料としては、この陳腐化の運命を逃れている。しかし、後述するように、ガソリンもまた、やがて瀕死の床に横たわるはずである。
 以上の物語のポイントを指摘しよう。製品の陳腐化を免れる保証は何もないということだ。たとえ自社の製品研究では陳腐化が起こらなかったとしても、他社の技術開発によって陳腐化することもある。
 石油産業のように、特別な幸運に恵まれない限り、やがては赤字の泥沼に落ち込んでしまうことは目に見えているーーちょうど鉄道がそうだったように、馬車のムチ製造業がそうだったように、街角の食料品店がそうだったように。そうした例は数え切れないほどある。
 幸運に恵まれるには、自ら幸運をつくり出すのが最良の方法だ。そのためには、事業を成功させる要因を知らなければならない。それを妨げる最大の敵の一つが大量生産である。


マーケティングは販売とは異なる

 大量生産型の産業は、出来る限り生産量を増やそうとする。生産量の増加に伴い、急速に製品の限界コストが低下する魅力には、どんな会社でも抗し切れるものではない。それによる利益の増大は何よりも素晴らしい。結果、企業努力は生産に集中し、マーケティングは軽視されるようになる。
 ジョン・ケネス・ガルブレイスは、これと逆の現象が起こると主張する(The Affluent Society)。生産量が膨大になるので、市場で処分するために懸命な努力が為される、というのだ。彼によれば、騒がしいコマーシャルが流れたり、田園風景が広告で汚され、浪費としか思われない卑俗な販売方法が取られたりするのは、このためである。
 ガルブレイスの主張は一面の心理を突いている。しかし、戦略的な面で過ちを犯している。大量生産が製品の「移動」に圧力をかける原因であることは間違いないが、通常、力が傾けられるのは販売にであって、マーケティングにではない。マーケティングは販売よりも高度で難しい機能なのに、無視されてしまう。
 販売とマーケティングは、字義以上に大きく異なる。販売は売り手のニーズに、マーケティングは買い手のニーズに重点が置かれている。販売は製品をキャッシュに替えたい、という売り手のニーズが中心だが、マーケティングは製品を創造し、配送し、最終的に消費させることによって、顧客のニーズを満足させようとするアイデアが中心となっている。
 産業によっては、大量生産の能力を最大限に利用したいという誘惑にかられ、何年もの間、トップ・マネジメントが販売部門に対して発破をかけてきたものもある。「製品を余すところなく売りまくれ。さもなくば利益が出なくなるぞ」
 対照的に、真のマーケティング・マインドを持った企業は、消費者が買いたくなるような値打ちのある製品・サービスを創造しようとする。売ろうとするのは製品やサービスそのものだけに留まらない。それがいつ、どんな形(環境・取引条件)で、どうやって顧客に提供されるのか。これらの全てを売ろうとするのだ。
 最も重要なことは、企業が売ろうとするものが、売り手によって決まるのではなく、買い手によって決まるという点である。売り手は買い手の誘導によって動くのであり、売り手のマーケティングへの努力の結果が製品になる。決してその逆ではない。

大手自動車メーカーの大量生産至上主義
 ここまで述べたことは、事業運営の基本ルールとして守られているように聞こえるが、実際には全くそうではない。ルールは守られているというよりも破られている。自動車産業を例にとろう。
 自動車産業と言えば、大量生産の代名詞であるが、その社会的影響力は最も大きい。顧客重視の姿勢が特に求められるので、毎年モデルチェンジが必要になる。この過酷な要求を福に転じたのが自動車産業である。
 自動車メーカーは、年に数百万ドルを消費者調査に費やしている。しかし、新しく出現したコンパクトな小型車が発売初年度から大変な売れ行きを示しているという事実を見ると、こうした調査は消費者の真のウォンツを掴めていなかったと言わざるを得ない。小規模メーカーに数百万の顧客を奪われるまで、大手メーカーは消費者が別の車を求めているということを理解しようとはしなかったのである。
 大手メーカーが、長い間消費者のウォンツとかけ離れた車しかつくることが出来なかったのは何故だろう。消費者の嗜好の変化を、調査が指摘できなかったのは何故だろう。実際に小型車が売れるまで気付かなかったのである。事実が起こる前に、今後何が起こるのかを発見することこそ、消費者調査の目的ではないのか。
 答えはこうだ。自動車メーカーは消費者のウォンツなど調査してはいなかったのである。前もって自動車メーカーが売り出そうと決めておいた車のうち、どれを消費者が好むのかを調査していたに過ぎない。
 自動車メーカーは製品中心主義であって、顧客中心主義ではなかった。メーカーが満足させられる顧客ニーズであれば、その限りで製品は手直しする。それでメーカーの任務は完了すると考えたのである。時には、消費者のための金融に力を入れることもあったが、顧客が購入できるように配慮するというよりも、一台でも多く売ることが目的だった。
 顧客のニーズが考慮されていないという例は書き切れないほど沢山ある。なかでも無視されてきたのが、販売における問題と自動車の修理・メンテナンス問題である。
 大手メーカーは、これらの問題は、二義的な重要性しか持たないと考えている。自動車産業の末端機関である小売店および修理サービス店は、メーカー組織の一部として経営もされていないし、コントロールもされていないのだから、それは明らかである。
 工場から出荷されると、車は決して行き届いているとは言えないディーラーの手に委ねられる。自動車メーカーの末端機関への無関心さを物語る事実を一つ挙げてみよう。
 修理サービスは購入を促進し、利益を獲得するチャンスでもあるが、シボレー7000店のディーラーのうち、夜間の修理サービスを提供する店は57店しかない。消費者は、修理サービスについての不満を口にし、現行の販売体制の下で車を購入することには不安があると言っている。車の購入時や修理時の心配事は、おそらく30年前よりも深刻になっており、その数も増えているに違いない。
 それでも自動車メーカーは、不安に悩む消費者の声に耳を傾けず、消費者から指針を得ようともしていない。耳を傾けるとしても、生産中心という偏見のフィルターを通して解釈してしまうことだろう。
 彼らは、マーケティングを製造の後に続く必要な努力としか考えていない。本来あるべき姿は、その逆である。利益は低コストのフル生産でのみ生まれるといった偏狭な見方がその背景にある。

ヘンリー・フォードはマーケティングを第一に考えていた
 大量生産が利益を生むという考え方は、経営計画や戦略の中に組み込まれてしかるべきである。だがそれは、顧客について真剣に考えた後のことだ。このことこそ、ヘンリー・フォードの矛盾した行動から我々が学ぶべき教訓である。
 ある意味で彼は、アメリカ史上、最も優れたマーケターであると同時に、最も非常識なマーケターでもあった。黒色以外の車を販売しなかったという点では非常識だが、市場ニーズに適合した生産システムの設計をリードしたという点では優れている。世間は決まってフォードを生産の天才であるとして褒めるが、これは適切ではない。彼の本当の才能はマーケティングにあった。
 世間では、フォードの組み立てラインによってコストが切り下げられたので売価が下がり、500ドルの車が何百万台も売れたのだ、と言われている。しかし実際は、フォードが一台500ドルの車なら何百万台も売れると考えたので、それを可能にする組み立てラインを発明したのである。大量生産は、フォードの低価格の原因ではなく結果なのだ。
 フォードは繰り返しこの点を強調したが、生産中心主義の経営者たちは、彼の偉大な教訓に耳を貸そうとはしなかった。以下は、フォードがその経営哲学を簡潔に述べた文章である。
「当社のポリシーは、価格を引き下げ、事業を拡大し、製品を改良することである。価格の引き下げを第一に挙げたことに注意してほしい。当社は、コストが固定的だと考えたことはない。
 だから、さらに売り上げが増えると確信するところまで、まず価格を引き下げる。その後で、その価格で経営が成り立つよう懸命に努力している。当社はコストで頭を痛めることはない。新しい価格が決められると、それにつれてコストを下げるからである。
 コストを積み上げて価格を決めるという通常の方法は、狭い意味では科学的かもしれないが、広い意味では科学的ではない。なぜなら、いくら詳細にコストを計算しても、それに基づいた価格では製品が売れないとしたら、そのコスト計算は何の役にも立たないからである。
 コスト計算は誰でもするし、当社ももちろん詳細にコスト計算をしている。重要なことは、コストがどうあるべきかについては、誰にも分からないという事実なのだ。
 それを発見する唯一の方法とは……まず価格を低いところに設定し、その価格で経営が成り立つよう、全員が最も効率よく働かざるを得ないようにすることである。低い価格に設定すると、誰もがその価格で利益を捻出しようと努力する。追いつめられた状況に追い込んだ末に、当社は製造方法や販売方法について発見を重ねるのである。時間をかけて、ゆっくりと調査研究した結果ではない」(我が一生と事業)(My Life and Work

製品偏重主義の罠
 生産にかかる限界コストさえ低くすれば、何とか利益が出る、という考え方は大変な思い違いで、会社をダメにしてしまう。特に需要の拡大する成長企業では、マーケティングや顧客を重要視しない傾向がある。
 このような狭量の偏見から生じるのは、成長ではなく衰退である。常に変化しつづける消費者ニーズや嗜好に対して、製品が上手く対応できなくなるに違いない。自社の既存製品しか目に入らないため、その製品が陳腐化しつつあることに気付かないのである。
 この古典的な例が、馬車の鞭製造業だ。いくら製品改良を試みても、死の判決から逃れることは出来なかった。
 しかし、馬車の鞭製造ではなく、輸送を事業と捉えていたら、生き残れたかもしれない。生き残るのに必要なこと、すなわち変革を試みていたかもしれない。輸送事業とまではいかなくとも、動力源に対する刺激、あるいは触媒を提供する事業だと定義していたとしたら、ファンベルトかエア・クリーナーのメーカーとして生き残れたかもしれない。
 いつの日か、石油産業も同じような古典的事例になるかもしれない。石油産業は、素晴らしいチャンスを他の産業に盗まれて来たので(例えば、天然ガス・ミサイル燃料・ジェットエンジン用潤滑油)、二度と同じ過ちは繰り返さないだろう、と誰もが考えているのではないか。
 しかし、事実は違う。馬力の大きい自動車用に設計される燃料システムにおいて、画期的な開発がなされつつあるが、ほとんどが石油会社以外の企業によるものだ。石油産業は石油と結びついた幸福にうつつを抜かし、こうしたイノベーションを無視してしまっている。
 石油ランプが白熱電球に直面したときの物語と同じである。現在石油産業は炭化水素燃料の改良を試みているくらいで、石油以外の原料であろうとなかろうと、ユーザーのニーズに一番適合した燃料を模索することなど、何ら試みていない。
 石油産業以外で目下行われている開発の例をいくつか挙げてみよう。
 10社以上で、エネルギーシステムの試作を進めているが、これが完成すると従来の内燃機関に取って代わり、ガソリンの需要は無くなるだろう。
 これらのシステムの優れた特徴は、燃料補給の際に作動を止める必要がないため、時間を無駄にしてイライラすることがない点だ。システムのほとんどは、ガソリンを爆発させる方式ではなく、化学物質から直接電気エネルギーを創り出す燃料電池である。水素や酸素など、石油から精製されるものとは違う化学物質が使われることが多い。
 また、その他数社で、大馬力の自動車用バッテリーを試作し始めている。そのうちの一社は、数社の電力会社と共同研究している航空機メーカーである。電力会社としては、電力消費の少ない深夜にバッテリーを充電させることで、ピーク時以外の発電能力を利用したいということだ。
 補聴器用の小型バッテリーに長い経験を持つ中規模エレクトロニクスメーカーも、バッテリーの開発に取り組んでいる。この会社は自動車メーカーと共同研究を行っている。
 また、ロケット用に高出力で小型の動力貯蔵装置が必要であるため、近頃改良が進められているのが、大きな負荷や電流の乱れにも耐えられる、比較的小型のバッテリーである。これも実用化が近いと思われる。
 ゲルマニウム・ダイオードの応用や焼結した金属板を使ったバッテリー、そしてニッケル・カドミウムの技術は、現在使用されているエネルギー源に革命をもたらすに違いない。
 加えて、太陽エネルギーシステムも注目を集めつつある。普段は発言に慎重な大手自動車メーカーの経営者が最近、未来を予言して「太陽エネルギーで動く車が、80年代までには普及するだろう」と述べた。
 ある石油会社の調査部長が私に語ったように、こうした動きは石油会社にとって、程度の違いはあるにしても、いずれも「注目すべき開発」である。
 燃料電池を多少研究している企業はいくつかあるが、大部分の石油会社は、炭化水素を動力源とした装置に固執している。燃料電池やバッテリー、太陽エネルギーによる動力の研究に熱心に取り組んでいる企業は一社もない。
 ガソリンエンジンの燃焼室の沈殿物を減らすといった平凡な研究にかけている費用の何分の一かすらも、これらの重要分野に割かれてはいないのである。
 ある大手の総合石油会社が、最近、燃料電池の将来を予想して、次のように結論づけた。
「燃料電池を熱心に研究している会社に言わせると、将来きっと成功しているということだが、当社にしてみれば、燃料電池の影響がいつ頃、どれくらいの大きさで出てくるのか、あまりにも遠い将来のことなので、さっぱりわからない」
 もちろん、次のような疑問が出てくるかもしれない。
「なぜ石油会社が現在の事業とは違うことに取り組まなければならないのか」
「燃料電池やバッテリーや太陽電池などは、現在の石油会社の製品ラインを無用にしてしまうのではないか」
 答えはまさにその通り。だからこそ、石油会社はその競争相手よりも先に、これら新しい動力源の開発を進めなければならない。石油産業が消えてしまえば、石油会社は存在し得ないからだ。
 石油会社の経営者が、自社の事業はエネルギー産業であると考えれば、それは企業の存続に必要なことであるはずだ。
 ただし、エネルギー産業と自覚するだけでは十分ではない。従来と同じ製品中心主義の狭い考え方を捨てなければ、その自覚も無駄になる。石油会社は石油を発見し、精製して売るのが仕事なのではなく、顧客のニーズを満たすことが仕事なのだ。石油会社が輸送についてのニーズを十分に満たすのが仕事だと正しく自覚したのなら、驚くほどの利益を生む成長を果たすに当たっての障害は一つもないのである。

創造的破壊の重要性
 「言うはやすく、行うは難し」であり、こうした考え方の行き着くところについて述べておくことが適当だと思われる。まず、第一の出発点ーー顧客から始めよう。
 消費者がガソリンを買う時の煩わしさや手間を嫌っていることは間違いない。彼らは、実際にはガソリンを買っているのではない。ガソリンを見ることも、味わうことも、手で触れることも、善し悪しを知ることも、現実に試してみることも出来ないからだ。
 何を買っているのかというと、自分の車を運転しつづける権利を買っているのである。ガソリンスタンドは、人々が自分の車を使用する代償として定期的に使用量を支払わされる徴税人のようなものである。つまり、ガソリンスタンドはもともと嫌われ者なのである。あまり嫌われないように振る舞ったり、不愉快感を減らしたりすることは出来ても、好かれたり愉快な場所になったりすることは出来ないのだ。
 ガソリンスタンドをなくす以外にはその人気を挽回することは出来ない。例え徴税人の人柄が良かったとしても、徴税人を好きになる人など一人もいない。例え美少年アドニスや魅惑的なビーナスから買うとしても、ガソリンといった目に見えない製品を、運転を中断してまで買いたいとは思わない。
 従って、頻繁に燃料補給する必要がない代替品の開発に努めている企業は、イライラした消費者たちが差し伸べた腕の中に飛び込めるのだ。
 これらの企業は必然的に成長の波に乗る。技術的により優れた、あるいは、より高級な製品を創り出すからではなく、顧客の強いニーズを満足させようとするからだ。しかも、その新しい燃料には有毒な臭気もなければ空気汚染の心配もない。
 石油会社が、顧客を満足させるには石油以外の動力システムが必要になるという論理を認めたとすると、消費効率の高い燃料(あるいは既存の燃料でも、消費者をイライラさせない給油方法)の開発に乗り出す以外の道がないことに気付くはずだ。
 かつて大規模食料品チェーン店がスーパーマーケット事業に参入し、真空管メーカーが半導体の製造に踏み切ったのと同じである。
 石油会社自体の将来のために、現在は高い利益を生んでいる資産を破壊しなければならなくなるだろう。いくら希望的観測によったところで、このような「創造的破壊」からは逃れられないだろう。
 私がこの創造的破壊を強調するのは、経営者が旧来の考え方から抜け出す努力をしなければならないと考えるからである。現代は、一企業あるいは一産業が自らの事業目的をフル生産の経済効率だけに置いたり、危険極まりない製品中心主義に偏ったりしやすい。
 経営者自身の考え方が定まらないと、経営はどうしても製品やサービスを生産することに向かってしまい、なかなか顧客に満足を与える方向には行かない。
 自社のセールスマンに向かって「製品を売りさばけ。そうでないと利益が出ないぞ」というほど底なしの泥沼に落ち込まないにしても、知らず知らずのうちに衰退の道を歩むことだろう。成長産業が次々とこの道をたどっていったのは、まさに自殺行為に等しい製品偏重主義に原因があったからだ。


研究開発に潜む危険な罠

 会社の絶えざる成長を脅かすもう一つの危険とは、トップ・マネジメントが技術の研究開発を進めさえすれば、利益は間違いないと思い込んでしまうことである。
 その例証として、新しい産業ーーエレクトロニクスを始めに取り上げ、次に再び石油会社について考えてみたい。新しく取り上げる例と、既に詳しく述べた例とを比較することで、一つの危険な考え方が知らぬ間に広がっていることが強調されるだろう。
 エレクトロニクス産業に属し、バラ色の未来が約束された新しい企業が直面する最大の危機とは何だろうか。研究開発に無関心なことではなく、あまりに注意を向けすぎるということである。
 急成長のエレクトロニクス会社がこれほどの地位に立てたのは技術研究の賜物である、と強調しすぎることは全くの的外れだ。エレクトロニクス会社が突如としてもてはやされるようになったのは、一般大衆がこの新しいアイデアに強い関心を示したためである。
 エレクトロニクス会社の成功にはもう一つ原因がある。軍の助成金によって保証された市場があり、多くの場合、生産能力を遥かに凌ぐ軍需があったためだ。換言すると、これまでの発展は、ほとんどマーケティングの努力なしにもたらされたものなのである。
 このようにエレクトロニクス産業は、優れた製品であれば自然に売れる、という幻想が生まれやすい条件の下で、成長を続けている。
 優れた製品を開発したことで成功した場合、経営者が製品を使ってくれる顧客よりも製品の方を重視するのは当然である。そして成長しつづけるには、絶えず製品の革新と改良を続けることだ、という信念が生まれる。
 この種の確信を強めこそすれ、決して弱めさせない要因は、他にも沢山ある。
 例えば、エレクトロニクス製品は高度な技術によるものだから、経営者はエンジニアや研究者を特に重視する。そのため、マーケティングを犠牲にして、研究と生産にだけ重点を置く。企業の使命は、顧客のニーズを満足させることではなくて、製品を生産することだと考えてしまう。
 その結果、マーケティングは、製品の創造と生産という、第一義の仕事が完了した後に為されるべきことで、何か余分な二義的な活動という扱いを受けることとなる。
 また、彼らには、このように製品の研究開発に偏りすぎること以外に、制御可能な変数のみを扱おうとする傾向がある。エンジニアや研究者は、機械・試験管・生産ライン・さらにはバランスシートなどの具体的な物の世界を居心地良く感じる。抽象の世界で性に合うものといえば、研究室でテストしたり操作できたりするものか、そうでなければユークリッド公理のように自分の役に立つものである。
 つまり、エレクトロニクス会社の経営者たちが好む事業活動は、慎重な研究や実験、制御可能なものーー研究室や工場や文献で確かめられる、形のある実用的なものに限られるのだ。
 そこには、見落とされているものがある。それは市場の実態である。消費者は予測しがたく、種々雑多であり、気まぐれで、愚かで、先が読めず、強情で、厄介きわまりない。技術畑の経営者は口にこそ出さないものの、心の底ではこう考えているはずだ。
 それゆえ、自分たちに理解でき、統御できるもの、すなわち製品研究、エンジニアリング、生産にだけ努力を傾注する。製品の限界コストは生産高に応じて低下するのだから、生産はますます面白くなる。収益を上げるには工場をフル操業させる以外にない、と考えてしまう。
 今日、大半のエレクトロニクス会社が、科学・エンジニアリング・生産中心に固まっているのに、これほど繁盛しているのは、軍が開拓し、保証してくれた市場などの新分野に進出しているためだ。市場を発見するのではなく、満たさなければならないという恵まれた立場に居る。顧客が欲しがるものを見つける必要はなく、顧客の方から進んで新しい需要を具体的に出してくれているのだ。
 どんなに優秀な経営コンサルタントに顧客中心のマーケティングの必要性がない事業環境を設計するように依頼しても、これ以上の条件を考えだすことは出来ないだろう。

マーケティングは「邪魔者扱い」されている
 科学や技術や大量生産に頼りすぎると、その大半の企業が横道にそれていく。その好例が石油会社である。
 石油会社は、消費者調査をある程度(あまり多くはないが)は実施しているが、その目的は、石油会社の活動の改善に役立つ情報を得ることにある。例えば、顧客が納得する広告テーマとか、もっと効果の上がるセールス・プロモーションとか、石油会社の市場シェアとか、ガソリンスタンドや石油会社に対する好感度などである。
 各石油会社を見渡しても、今後顧客を満足させる素材の基本特性とは何かといった基本ニーズを調査しているところは見当たらない。
 彼らは顧客と市場に関する根本的な質問など、全く投げかけたりしない。要するにマーケティングは邪魔者扱いされているのだ。問題はあるし、無視できないという認識はあっても、真剣に考えたり、十分な注意を払ったりするほどのものではないと思っている。
 彼らは遠いサハラ砂漠の石油には熱中するのに、すぐ側にいる顧客には冷淡だ。マーケティングがどれほど無視されているかは、業界新聞の扱い方を見れば明確だ。
 59年発行の『アメリカ石油協会クオータリー』100周年記念号は、ペンシルベニア州タイタスビルでの油田発見を祝して、石油産業の偉大さを証言した21の特集記事を載せている。この中で、マーケティングの成果に触れた記事はたった一つしかなく、それもガソリンスタンドの建物にどんな変化が見えるかを図入りで示したに過ぎない。
 またこの号には、「ニュー・ホライズン」と名付けた特別コーナーがあって、石油がアメリカの未来にどんなに素晴らしい役割を演じているかを強調している。このコーナーに書かれていることは、どれもこれも楽観主義に溢れており、いつか石油にも強力な競合製品が出現するかもしれないといったことを、暗に匂わせたものすら見受けられない。
 原子力エネルギーについて述べた記事にしても、その成功に石油産業がどのように役立つのかという項目を並べ立てた内容になっている。石油産業の現在の豊かさもやがては脅かされるかもしれない、といった懸念など微塵も伺うことができない。
 また、石油を利用している既存顧客にもっと優れた新サービスのやり方を提供する「ニュー・ホライズン」が現れるといったことにも触れていない。
 マーケティングを邪魔者扱いしている典型的な例は他にもある。「エレクトロニクス革命の未来像」と題した短い特別記事のシリーズがこれであり、次のような見出しがついている。

・石油探査とエレクトロニクス
・採掘作業とエレクトロニクス
・精製工程とエレクトロニクス
・パイプライン作業とエレクトロニクス

 注目すべきは、石油産業の主要な機能分野は残らず挙げられているのに、マーケティングだけが挙がっていないことである。なぜだろうか。石油のマーケティングにエレクトロニクス革命は関係ないと信じられている(これが誤りなのは自明である)のか、それとも編集者がマーケティングに触れるのを忘れたからだろう(こちらはありそうなことで、マーケティングを邪魔者扱いしていることをよく示している)。
 石油産業における四つの機能分野を並べた順序を見ても、石油産業が顧客から遠く離れていることを告白しているようなものである。油田調査に始まり、精製工場からの送油で終わるのが石油産業である、と定義しているようだ。
 しかし実際には、石油産業であろうと製品に対する顧客ニーズから始まる、と私は考える。従って、この最上位の顧客から、順々に重要性の低い分野と逆に進んで、最後に「油田探査」で終わるべきなのである。

発想を逆転させなければならない
 産業活動とは、製品を生産するプロセスではなく顧客を満足させるプロセスであることを、全てのビジネスマンは理解しなければならない。顧客とそのニーズから始まるのであって、特許や原材料、販売方法からではない。
 顧客ニーズを明らかにして、顧客を満足させるには何をどのようにして提供すべきか、と逆に進むべきである。さらに逆進して、顧客に少しでも多くの満足を与えられる製品を創造すべきである。
 顧客にすれば、この製品がどのようにつくられるかなど無関係であり、従って、製造方法・加工方法その他の作業の具体的内容は、産業活動にとって重要事項ではない。最後に、さらに逆進して製品を生産するのに必要な原材料を見つけにいくのだ。
 研究開発を重視する産業にとって皮肉なことは、経営の席に着いている科学者たちが組織全体のニーズや目的を定義する場合になると、全く科学的でなくなる、という点である。
 彼らは、科学的方法における二つの基本的なルールーー企業の課題は何かを突き止めて問題の定義をする、次にその問題を解くための仮説を立てるーーを破る。彼らは研究室や製品実験といった勝手のわかるものについてだけ科学的なのだ。
 顧客(そして彼らの心の底にあるニーズを満たすこと)が企業課題として考慮されないのは、顧客に問題はないと確信しているからではない。科学者として昇進してきたために、経営を逆の方向には進ませたくはないからだ。彼らにしてみれば、マーケティングは傍流部門なのである。
 私はこれらの産業で販売が無視されているといっているのではない。繰り返しになるが、販売とマーケティングは違う。既に述べたように、販売は企業の製品と顧客のキャッシュを交換するためのテクニックである。その交換によってどのような価値が生まれたのかは関係がない。
 販売はマーケティングとは異なり、顧客ニーズを発見し、創造し、触発し、満足させるといった一連の努力こそ事業活動の全てである、という立場には立っていない。販売にとって顧客とは、どこか外側にいる見知らぬ人であり、上手い手を使えばその小銭を吐き出させることが出来る相手に過ぎないのだ。
 技術志向の会社の中には、このような販売にさえ、あまり大きな注意を払わないところがある。次々と新製品を発売しても販売が保証された市場があるために、市場とはどんなものかを全く知らない。
 彼らは、あたかも計画経済の中にいるかのように、製品は工場から小売店に間違いなくひとりでに移動する、と考えている。製品にだけ目を向けてこれまで成功してきたものだから、過去のやり方が正しいと思い込んでいる。従って、市場の上に怪しげな雲が集まり始めているのに気付かない。


顧客中心の企業となるために

 つい75年ほど前には、アメリカの鉄道産業は、抜け目のない証券市場から、絶対に間違いのない投資先だと思われていた。ヨーロッパ各国の王室は、アメリカの鉄道産業に膨大な金を投資した。数千ドルをかき集めて鉄道株を買った人には、神の祝福として永遠の富が約束されたと考えられた。スピード・融通性・耐久性・経済性、さらには成長可能性から見て、鉄道に匹敵する輸送形態はなかったのである。
 ジャック・バーザンが指摘したように、「19世紀の終わり頃までは鉄道は社会制度そのものであり、人間のイメージそのものであり、伝統であり、栄誉の象徴であり、詩の源泉であり、最高の玩具であり、人生のエポックを記す荘厳な機械であった」。
 自動車、トラック、航空機が出現した後でさえも、鉄道は揺るぎない自信を持ち続けていた。今から60年前に鉄道会社の経営者に向かって、「30年もすれば鉄道は活気を失って破滅の道を辿り、政府からの助成金を嘆願するようになるだろう」などと言おうものなら、頭がおかしいと思われたはずだ。そのような未来は考えもつかなかったからである。
 問題視したり質問したりというより、普通の人間はそんなことを考えつきもしなかった。そのような未来を思い描くなどということは、正気の沙汰ではなかったのだ。ところが、現在では、その“とんでもないこと”が現実として受け入れられている。
 例えば、楽しげにマティーニを飲んでいる分別ある100人の市民を乗せて、重量100トンの金属物体が地上10000メートルの上空をスムーズに移動するといったアイデアも、今や現実のものとなった。これらが鉄道産業に無惨な一撃を加えたのである。
 こうした不幸な運命を避けるために、企業はどうすれば良いのだろうか。顧客中心に考えるとはどのようなことなのだろうか。部分的かもしれないが、この質問への答えは、これまでに挙げた事例とその分析で明らかにしてきた。個々の産業についての詳細は、別の機会で示したいと思う。
 いずれにしても、顧客中心の企業となるには、単なる志や秘密の販売促進法以外のものが必要になることは間違いない。その際、どういう組織を作り、どういうリーダーシップを取るか、といったより大きな課題に取り組まなければならない。
 ここでは、衰退の運命を避けるために、一般的に何が不可欠なのかを提言するに留めたい。

マーケティング・マインドの浸透にはリーダーシップが欠かせない
 企業がその存続に必要なことを実行するのは当然である。市場の要求に応え、しかも素早く対応しなければならない。単に存続することだけを願うのなら、話のスケールは小さい。堂々と生き続け、事業で成功を収めたいという衝動を持ち続けるには、成功という甘い香りに酔うのではなく、起業家の素晴らしさを心の底から実感することがその秘訣となる。
 成功への情熱に駆り立てられた精力的なリーダーなくしては、どんな企業も優れた業績を上げることは出来ない。リーダーは数多くの熱狂的なフォロワーを惹き付けるだけの勇猛果敢なビジョンを掲げなければならない。
 ビジネスの世界で言えば、フォロワーとは顧客である。こうした顧客をつくり出すには、企業全体を顧客創造と顧客満足のための有機体であると見なさなければならない。経営者の使命は、製品の生産にあるのではなく、顧客を創造出来る価値を提供し、顧客満足を生み出すことにある。
 経営者はこの考え方(及び、これが意味し、要求するすべてのもの)を、組織の隅々まで広めなければならない。しかもこれを休みなく、社員たちを興奮させながら刺激するような鋭い経営感覚をもって浸透させる必要がある。さもなくば、組織はバラバラな部分が並んだものに過ぎなくなり、一本化された目的意識や方向性が失われてしまうだろう。
 つまり企業は、製品やサービスを生み出すためではなく、顧客の購買意欲を促し、その企業と取引したいと思わせるような活動をするためにある、と考えなければならないのである。
 またCEOはこうした環境・態度・願望をつくり出すために大きな責任を負っている。経営姿勢、進むべき方向、目標を設定しなければならない。
 そのためにはCEO自身がどこへ進みたいのかを正確に把握していなければならないし、企業全体が進むべき目標を十分に理解出来るように努めなければならない。これこそがリーダーシップの第一条件である。
 自分の進む目標がわからなければ、人は迷路に迷い込んでしまう。道が無数にあるためだ。どの道でも構わないのであれば、CEOは鞄をしまって魚釣りにでも出かければ良い。
 もし企業が進むべき目標を知らず、それに無頓着ならば、わざわざ教えてやる必要もない。やがて誰もが、その誤りに気付くのだから。